守るという言葉の意味を、
キミは、知らなくてはならない。
幻想/酔夢
村はずれのとある一角で、わぁわぁと泣き叫ぶ子供の声が聞こえる。
昨夜の雨のためか路面はぬかるみ、車の跡がくっきりと残っていた。
少年は道端にうずくまり、ぎゅっと身を固めている。
その小さな腕に抱かれていたのは傷ついた一匹の子犬。
もう息も絶え絶え、瞳を閉じて身を震わせていた。
「ごめんね、ごめんね…もっと僕が強かったらちゃんと守れたのにっ……」
こんな目には遭わせなかったのに、助けてあげたかったのに。
「…どうしたの?」
「この子…馬車にひかれちゃったのっ…小さいのに…僕が守ってあげなきゃいけなかったのにっ…!」
俯いてぼろぼろと涙をこぼす少年の頭に、彼はぽん、と手のひらを置き、にっこり笑った。
「ひとつ、キミに話をしてあげるね。」
なにも良い話じゃないけれど。
ソレはボクがまだ、何も知らない、言ってみれば子供だった頃。
今よりも少し、昔の話。
◇
一ノ宮勘太郎は、ある洋館へ赴いていた。
普段なら縁遠い、この辺りでは有名な資産家として名を馳せていたこの家から、彼に直々のお呼びがかかったのである。
「お忙しい中、ご足労ありがとうございます、一ノ宮サン。」
「いえいえ。日下部家のご主人自らに歓迎を受けるなんて、光栄の極みですよ。」
メイドに出された紅茶のカップを受け取りながら、勘太郎はにこにこと微笑んだ。
鼻をくすぐる芳醇な香り。やはり高いお茶は違うね、と彼は小さく呟く。
「ところで、ボクへの用事とは?…まさか、民俗学に興味を持たれたとか、じゃナイですよね?」
カップに口をつけて悪戯っぽい瞳を向けてくる勘太郎に、主人は柔らかく笑んだ。
「ハイ、残念ながら。…実は、折り入って一ノ宮サンにお願いしたいコトがあるのです。
……妖怪退治屋である貴方と見込んで。」
角砂糖の入った器を置くと、メイドはお辞儀をし、静かに去って行った。
パタン、と扉が閉まり、その後は部屋にある置き時計の音しか聞こえない。
勘太郎がおもむろにカップをテーブルに戻すと、主人はゆっくりと口を開いた。
「実は最近、この辺りで十にも満たない娘が神隠しのように消えてしまうという事件が多発しているのです。そしてその原因が森にいる妖怪の仕業ではないかという噂がありまして…うちにも小さな娘がおりますので、気が気でなくて…。」
「はぁ、ソレでボクにその真相を暴いてきて欲しい、と。」
その通りです、と紳士は頷く。
「この辺りで十に満たない娘は、うちの娘を含めてあと2、3人しかいません。
その親たちも皆、日々怯え暮らしています。」
そのとき、かちゃりと応接室の大きな扉が開き、メイドと共に、七つくらいの少女が顔を出した。
少し赤毛の混ざった茶色の髪を耳の辺りで二つにまとめ、ピンクのエプロンドレスをひらひら揺らしてこちらへ向かってくる彼女。
足を踏み出す度、髪にくくってある大きなリボンがふわふわと舞った。
「これが、娘の音葉です。」
紳士の横に並び、少女――音葉は大きな瞳をくるくる動かして、不思議そうに勘太郎を見る。
「よろしく、音葉ちゃん。大丈夫、ボクがキミの無事は必ず守るからね。」
ふわりと頭を撫でると、小さな音葉はにっこりと人懐っこい笑みを浮かべた。
「うん、ありがと、おにーちゃん!」
「一ノ宮勘太郎、全身全霊をつくしてその妖怪を退治して参りますっ!」
式服に身を包み、勘太郎は日下部の屋敷を後にした。
噂である妖怪たちの住むという森。確かに辺りは妖力に溢れているような気はするが。
「この辺でそんな困った妖怪が出たなんて、誰も言ってなかったしなぁ…。」
彼の言う「誰も」というのは、友人である妖怪たちのコトである。
「妖怪のことは妖怪に聞け、って言うし…本当にそんなひどいヤツがいるのなら、ボクの力でこてんぱんに……」
彼が独り決心を固めていた傍らで、がさり、と草の乾いた音がした。
思わず身をも固めてしまった勘太郎は、ふぅーっと息を吐くと、音のした方向を見やる。
いつでも攻撃が出来るよう、懐には札を忍ばせて…。
しかし、いくらまっても何も現れない。
不思議に思った勘太郎が草を掻き分けていくと、そこには一匹の狐が横たわっていた。
その身体からわずかに発せられている、小さな妖力。
「この子…妖狐…?」
罠か何かにかかったのか、細い後ろ足には血が滲んでいる。
苦しそうに瞳を閉じていた妖狐だったが、ふと勘太郎の影に気付くと、慌てて逃げようともがいた。
「大丈夫、怖くないよ。」
勘太郎がふわりと微笑むと、妖狐の瞳から警戒の色が消え、じたばたと動かしていた手足を止めた。
「良い子だね。今傷の手当てをしてあげるから。えっと薬草をここに…」
勘太郎は手早く介抱し、最後に持っていた水色の手ぬぐいを引きちぎって、そっとその患部に当てて結んでやる。
「ん、これで良し!その手ぬぐい、お気に入りだったんだからね。大事にしてよ。」
にっこり笑ってぼん、と妖狐の頭をなでると、妖狐はぴょこんと頭を下げて森の奥へ消えていった。
走り去る後姿を見ながら、勘太郎は唇を噛む。
「……アレは大きい生き物の牙の痕だった。やはりココには、何かいるんだ…。」
そのとき、がさり、と再び草の音が響いた。
先ほどの雰囲気とは全然違う。
これ…これは……
「鬼っ……!?」
勘太郎は、思わず息を呑んだ。
書物で見たことはあった。人づてに聞いたこともあった。
しかし、本物を見るのは初めてだったのだ。
巨体にぎらぎらと光る爪と牙。
その鋭い目つきに、さすがの彼も少し臆したが、それでも大地を強く踏みしめて、静かに問うた。
「…キミが、少女達を攫ったのか…?」
ガルル、と言葉でない音を発し、鬼はじりじりと勘太郎に迫り寄る。
普通に話の通じる相手ではないと、彼は一瞬で悟った。
「……ソレなら、力でねじ伏せるしかナイなぁ…。」
勘太郎は、ため息交じりに懐から札を取り出した。
そう、相手を自分に従わせるのみ……!
互いに間合いを取っていたが、やがて鬼の大きな身体が、ばっと宙を舞った。
自分に飛び掛ってきた鬼に向かって、勘太郎は素早く印を刻む。
これで終わりだ、という不敵な笑みを浮かべながら。
ソレは、彼が身につけた中でも、一番強力な九字。
彼は素早く襲ってきた爪を素早くかわし、数枚の札を投げつけた。
「ガガガァッ……!」
勘太郎の背後で、悲鳴と共に強大な音が響く。
……やった……。
「さあ、おとなしく……。」
勝利を確信した彼がくるりと振り返ったその瞬間、顔に黒い影がかかった。
同時に、鋭い爪が振り下ろされる。
………え…?
目の前が真っ白になり、瞬間、ばらばらと、無数の数珠が散った。
周囲に鮮血が飛び散り、勘太郎の身体は飛び上がって振り子のように弧を描いて、地へ落ちる。
「……そ…ん、な……っ」
引き裂かれた式服に、じんわりと紅い血が滲んだ。
手ごたえは確かにあった。なのに……。
再び鬼は右手を振り下ろしてきたが、さすがにそう何回もやられてはいられない。
重たい足を持ち上げ、勘太郎は迫り来る腕から逃げようと勢いよく駆け出した。
「っ…はぁ、はぁっ…。」
胸の傷がずきずきと疼く。
勘太郎は堪らなくなり、その場へ突っ伏した。
後にはぽたぽたと紅色の血痕が残っている。
なんとか撒いたが、鬼が血の臭いを嗅ぎ分けてやって来るのは時間の問題だ。
勘太郎はよろよろと立ち上がり、ぼんやりと空を仰いだ。
日差しは、そんなに強くない。
「……空、青いなぁ……。」
これまで、それほど苦労もせずに上手くやってきた。
多くの人間に感謝され、自分でも、退治屋家業が板についてきたと思っていた。
下手をすれば、本業である民俗学者としての働きよりも自信があったかもしれない。
今回も大丈夫だろうと、そう、甘い考えしか頭にはなかった…ことは、確かだ。
「っつ……。」
胸にまた、鈍い痛みが走る。
ゆらりと視界が揺らぎ、勘太郎は力なく木にもたれかかった。
札も効かない、打てる手はもう全て使ってしまった。
全てはボクの力不足だった、ってコトかな……。
胸に浮かぶは歯痒さと後悔。
そして、少女の笑み。
ごめん、音葉ちゃん……。
もう駄目だと、ふっと瞳を閉じた、そのとき。
目の前を、びゅっと黒い影が横切った。
……なんだ……?
額の汗をぬぐい、勘太郎は瞳を凝らす。
ふさふさの毛並み、大きな耳に尻尾。
足には、水色の……。
「…さっきの…妖狐……?」
勘太郎の前に現れた彼女は、目前の鬼を威嚇するかのように毛を逆立てている。
体型は決して大きくない、でも、必死に自分の前に立ちはだかって。
「ボクを守ろうと、してくれてるの……?」
こんな小さな身で…なんで……。
遠くの方で、何者かの吠える声が聞こえる。
遂に追っ手が来たのだ。
荒れ狂う声の主はどんどん迫ってくる。
黒い影が、ぼやけた視界にもはっきりと解る位に。
「お逃げ…キミの敵う相手じゃないんだよ……。」
掠れた声で、勘太郎はその小さな後姿に声をかける。
しかし、妖狐はその場を動かなかった。
危ないと、何度促しても。
「ど…う……し、て……?」
喉の奥がひりひりして、目の辺りが、熱かった。
相手の力量に見合うワケでもじゃないのに。
勝算なんて、微塵もないのに。
みすみす、こんな所で命を落としたいの?
許せなかった。
力の差は明らかだって自分は言ってるのに、頑固に盾になって。
でも、なによりも。
一番許せないのは、自分自身。
勘太郎は、ふらりと立ち上がった。
自分の座っていた場所には、くっきりと血の跡がついている。
足元がふわふわおぼつかない。
腕を上げる力すらも、あまり残っていなかった。
「…このままじゃ、出血多量で、死んじゃうかもね…。」
倒れてしまうのは、なんと簡単なコトだろう。
出来ないのは、どうしても守りたいものがあるから。
そう、約束したから。
妖狐を押しのけ、勘太郎は前に出た。
どうやって相手に立ち向かったかは記憶にない。
巨体がぐらりと揺れて、灰のように散り散りになるのを横目で確認した瞬間、勘太郎に目の前は真っ白になった。
◇
「そのとき感じたんだ、守るって、簡単なことじゃないんだな、って。」
「……。」
「安易に口にすることは出来る、でも、諦めるコトも同じく簡単だよね。キミも……」
「違うよっ…僕は本気で…本気でっ……!」
良い子だね、勘太郎はふっと笑うと、少年の頭を優しくなでた。
「それじゃあ、一緒に埋めてあげようか。」
「……うん!」
溢れてきた涙を袖でごしごしと擦ると、少年は大きく頷いた。
◇
「…お目覚めですか?」
気がつくと、肩にかからないくらいのところにきっちりと切りそろえられた栗色の髪の毛をもつ少女が、傍らに座っていた。
大きなベッドに横たわったまま、ぼんやりと記憶を探っていると、トントンというノックの後、静かに扉の開く音がした。
「一ノ宮サン…よかった、気がつかれましたか!」
安堵の表情と共に現れた紳士。
「…あ、日下部サン…?」
「人攫い妖怪に勇敢に立ち向かい、見事退治なさったとそこの娘サンに聞きました。ありがとうございます…本当に、ありがとうございますっ…!」
隣を見やると、ふんわりと微笑んでいる先ほどの少女。
その雰囲気は、まるで。
「妖狐……?」
ヨーコさんと言うのですね、と、紳士は手を打った。
「娘の音葉を連れてまいります。一ノ宮サンのコトをずっと心配しておりましたから、きっと喜びますよ。」
失礼します、と短く告げると、紳士は慌しくその場から立ち去った。
「……キミが、ここまで連れてきてくれたの?」
「ハイ。微かにさっきの方の匂いがしましたので。」
そうか……小さく勘太郎は呟く。
「キミに教えてもらったよ、いろいろなことを。…ありがとう。」
「私は、自分のしたいようにしただけです。言うことを聞かず、すみません。」
「したいように、か。ソレが一番すごいコトじゃないかな…。」
ふわふわと風になびくカーテンごしに、青い空が見える。
雲ひとつなく、あの日と同じ眩しい太陽が輝いていた。
「時にお尋ねしたいのですが、先ほどの名前、私のものだと受け取っても……?」
「キミが望むのなら。」
勘太郎の一言で、少女の顔に笑みがこぼれる。
「これから宜しく頼むね、ヨーコさん。」
「勿論です、ご主人さま。」
観凪さまのリクエストで、「勘ちゃんが駆け出しの頃の鬼退治話」でしたー。
勝手に過去捏造…でも楽しかったです。
どうもありがとうございました!
