特別欲しいなんて思ったことはなかったのに。
それは とても、簡単なこと。
昨日までの雨が嘘のように上がり、空には太陽が輝いている。
ぽかぽかとした陽気。大きな洋館、開け放たれた窓から、ロキは静かに外を見やった。
暖かく、爽やかな風が頬をかすめる。
「春だなぁ…」
茶色いふわふわとした髪を揺らし、彼は呟いた。
暖かいのは大いに結構。寒いことがあまり得意でない彼にとっては、とても過ごしやすい気候である。本を読むその合間に転寝…想像するだけで、なんて幸せな時間だろうか。
いつもの仕事机から、日当たりの良いソファに移動しようとした矢先、コンコン、と軽い音が響いた。
短めのノックの後、にこにこと満面の笑みを浮かべ、顔を出す少女。
色素の薄い、長い髪の毛を揺らし、トコトコとロキの前までやってくる。
「どうしたの、まゆら。今日はえらく早いご出勤じゃない?」
「えへへ、明日から春休みでね、今日は午前でお終いだったんだよ。」
「ふーん…」
「でね、ロキくんっ!」
「な、ナニ…」
「実は、明日からしばらく探偵社に来れないの。」
「……はい??」
それまで弄んでいた本を取り落とし、素っ頓狂な声を上げるロキ。
それもそのはず。
三度の飯よりミステリーがすき、と言っても過言ではないまゆらが、しばらく探偵社には来ないだって?
「どーゆー心境の変化?」
「別に、変化なんてしてないよ。」
「じゃあ何で来ないなんて言うのさ?」
いきなり核心を突いてくるロキの言葉に、まゆらは困ったような顔をする。
「ごめんね、ロキくん…」
悲しそうに瞳を伏せ、俯く彼女を見ていたら、それ以上は何も言えなかった。
(………その顔は、反則だろ…)
まゆらは宣言どおり、次の日から探偵社に来なかった。
別に、彼女が来たからと言って事件が舞い込むわけではない。
でも、少なくともこんなに退屈ではなかったはずだ。
ロキは、ふぅっと重いため息をついた。
暖かい日差しの下、惰眠でも貪ろうか。そう考えて何度となくソファに移動しようとしたけれど。
何だか、胸の辺りに痞えたモノがあるようで。
(……眠れない。)
だからといってすることがあるワケでもなく。
(まゆらがいないだけで、こんなにダメになっちゃうのか、ボクは…)
もうひとつため息をつくと、ロキは机に頬杖をついた。
探偵助手の代わりなんて誰かにやってもらえばいいではないか。
以前のように、闇野に頼めばいい話である。
それがだめでも、幸いここにやってくる身内(?)は後を絶たないわけだし。
「別に、まゆらじゃなくても、いいハズなのになぁ……」
「ナニがなくてもいいかって??」
考え込んでいて気が付かなかった。
ロキが移動しようとしていたソファに、いつのまにか人が座っている。
「……ナルカミくん、キミ、ノックくらいしたまえよ。」
「したぞ?でも返事がなかったからな。ロキ、飯食わせてくれ!」
いつも通りの遠慮ない言葉に、ロキは肩を落とす。
「ひとが真剣に悩んでいるときに、キミってヤツは……」
「何悩んでるっつーんだよ…そーいやお前、大堂寺から聞いたか?」
「何をっ…??」
思わず、過剰に反応を返してしまう。
しまった…と思いつつ学ランの少年の方を見やると、思ったとおり、にやにやとこちらの顔を窺っていた。
やっぱりか〜…などと意味深な言葉まで呟いている。
ロキは平静を装い、コホン、と咳払いをした。
「ナルカミくん、キミはまゆらから何か聞いたんだね。ココに来ない理由。……言いたまえ。」
「何を偉そうに。ソレが人にモノを頼む態度か?」
「いつもいつも、うちに集りに来ている人間に言われたくないっ。」
ロキの一言に、鳴神はぐ…と詰まる。
そんな彼の様子を見、進歩がないなぁとロキは呟いた。
鳴神はずり落ちかけたソファにしがみつき、なんとか体勢を整えている。
「…それとこれとは別だろ…しかしお前、さっきはえらく焦ってたみたいだが…
大堂寺が来ないことがそんなに不服なのか?」
「そんなにって…別にボクは……」
「アイツのコトを把握しておく必要が、お前にあるワケ?
だいたい、押しかけ助手は迷惑だって言ってなかったっけか?」
試すような鳴神の口調。ロキの頭にぼっと熱が昇った。
口車に乗せられてしまったと、後悔しても時既に遅し。
「ああそうだよっ、そうだった!まゆらが来なくてボクはせいせいしていたところだったっ。」
乱暴に椅子に座りなおすと、手元の本に視線を移した。
しかし、全然頭には入ってこない。
なんだよ、なんなんだよ。
やるせない気持ちでいっぱいになる。
これまで、他人に対してこんな風に思ったことがあったっけ?
闇野の料理をお腹いっぱい平らげた鳴神は、ごちそーさん、と一言残して帰っていった。
ゆっくりと閉まる扉を見、ロキは眉をゆがめる。
余程怖い顔をしていたのだろうか、「ロキさま…」と闇野の心配そうな声が聞こえてきた。
ロキは慌てて笑顔を作る。
「ロキ様、久しぶりにコーヒーなどはいかがですか?」
「いいね。ヤミノくんの入れてくれるお茶は誰のものよりも美味しいけれど、コーヒーも絶品だからなぁ」
闇野はにっこりと微笑むと、湯気を立てたカップをテーブルに置いた。
ありがとう、と呟くと、ロキは静かにミルクを注ぎいれる。
ぐるぐると混じっていくミルクとコーヒー。水面に映る自分の顔をぼんやりと眺めながら。
(そういえばコーヒーは嫌いではないけれど、特別飲みたいと欲したことはないな。)
これまで、自分から手を伸ばしてまで手に入れたいと思ったものはなかった。
カップを手に取り、コーヒーを口に含む。ほろ苦い味が、口腔内に広がった。
同時に、
『ロキくん』
少女の声が、頭の中に響く。
苦味が、一気に引いていく。
あぁ、あの明るい声を、ボクは何日聞いていないっけ。
「……ヤミノくん、ボク、ちょっと出かけてくるよ。」
「……お気をつけて。」
扉を開けると、辺りはすっかり闇に覆われていた。空には星が光っている。
今の時間なら、きっと彼女は家にいるはずだ。
そう考え、誰もいない道を走り出す。
何も、急ぐ必要なんてないのに。
流れていく景色の中。
長いマントを翻し、ロキは走り続けた。
足が痛い。息が乱れる。
額には、汗が滲んでいた。
格好悪い、こんな姿。
自分が懸命になってまで、ソレは手に入れる価値があるものなのか?
―――そう、心の中で問いかける声が聞こえる。
そんなの解らないよ、でも。
欲しいんだ。
彼女の家の前に立つ。
未だ呼吸が整わないまま、ロキはインターフォンを押した。
ばたばたと玄関まで駆けて来る音が聴こえて。
そして。
「…あれ、ロキくん?」
どうしてここに?と問いかけてくるまゆらの大きな瞳。
彼女に逢えたという安堵からだろうか。はは、と自嘲気味な笑いがこぼれる。
ココロの周りを覆っていた、厚い壁。
彼女に逢って、それが、ことん、と音をたてて崩れていくのがわかった。
「おかしいよね……こうなる予定なんて、なかったのにさ……」
開いた口から、滑っていく言葉。
初めて、心から欲しいと思った。
傍に置いておきたいと。
「どうして、探偵社に来れなかったんだい?」
通された客間で暖かいお茶をすすりながら、ロキは尋ねる。
まさか、そんなことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
ロキの問いにまゆらはきょとんとしていたが、やがてくすくすと笑い始めた。
「入学式、新入生のための出し物があるんだけど、その練習を春休みにすることになって。準備が忙しいだろうから、クラス全員で、個人的にバイトとかそーゆーのをしている人は休みましょうって話になったの。それで……」
不本意ながら、春休みは自分もロキのところへ行くことを諦めたということらしい。
「……それだけ?」
「うん、それだけ。」
まゆらの能天気な微笑みを見ていると、力が抜けていく。
ロキは大きなため息をついた。
「もしかしてロキくん、私という優秀な探偵助手が来なくなったせいで、仕事に支障をきたしちゃった?」
「や、ソレはないけど。」
「むぅ、即答なんてひどーい!」
「………まゆら、その練習は何時に終わるの?」
「え?」
「…ボクが、明日から学校まで迎えに来るっていってんの!」
予想外の台詞に、彼女は返す言葉もなく。
ただ、頬が熱くなっていく。
「……まゆらに逢えないと、ボクは、生活に支障をきたしてしまうみたいだからね。」
奈緒さまリクエスト、ロキまゆ小説でしたー
どうもありがとうございました!
