一度認めてしまえば、
もう
堕ちてゆくのは 簡単だった。
純粋理性
夕暮れ。西の空でカラスが鳴き始める時間。
どんな家の子供でもご飯時には家へと向かう。
今日も半日木の上で昼寝に勤しんでいた、そんな彼が帰る先。
一ノ宮家の台所からも、トントンと軽やかな包丁の音が聞こえていた。
彼―――春華は台所から流れてくる匂いに誘われて、ひょっこりと顔をのぞかせる。
暖かな湯気の中、肩で綺麗に切りそろえられた髪の毛を揺らしながら立っている少女の後姿が見えた。
そういえば珍しく原稿料が入ったとか言ってたな、と寝ぼけた頭でぼんやり思う。
少女は春華が入ってきたことに気づいていないらしく、お醤油ご飯とぶりの照り焼きは違うよね、と呟いてくすくす笑い声を立てている。
ぶりの照り焼きに加え、今日は具沢山のお味噌汁。
鍋の中でコトコトいっているソレからも、もうすぐ胃をくすぐるような匂いが立ち込めてくるに違いない。
まともな分、準備に時間がかかるのもまた事実らしい。
でも食事を作れるという嬉しさには代えられないのだろう。
少女―――ヨーコはるんるんと鼻唄を歌いながら切り分けた野菜を笊に入れていた。
どこまでも気づかない彼女に、春華は後ろから声をかけた。
「今日の味噌汁の具は何だ?」
急に話しかけられてびっくりしたような様子の彼女だったが、春華の顔を見ると、「おかえり。」と満面の笑みを浮かべる。
―――この瞬間が、好きだった。
「今日のお味噌汁は今旬の山菜だよ。春華ちゃんもお腹すいたでしょ。もう少しで出来るから待っててね。」
春華は、忙しそうな彼女に「ああ」と小さく返事をすると、茶の間に向かった。
「おかえりー春華。」
「おぅ……で、何でお前までいるんだ……?」
「そりゃーごあいさつだな、鬼喰い。せっかく俺が山で採れた山菜を持ってきてやったのに。」
ちゃぶ台の前には、勘太郎に加え スギノとむーちゃんが座っていた。
ご丁寧に湯のみまで置かれている。
「どーゆー風の吹き回しだ?スギノ。」
「まぁまぁいいじゃん。ヨーコの美味い飯が食べたくなっただけだって。」
「……ソレが一番問題だろ……。」
カラカラと笑っているスギノと、渋い顔で睨みつける春華。
そしてそんな二人の間に割って入る勘太郎とむーちゃん。
「まぁまぁ二人ともその辺にしときなって。それにしてもスギノさまがくれた山菜の味噌汁、楽しみだなぁ~♪」
「まぁそれはそうだな。いつも醤油ご飯だし。」
「え……ソレって遠まわしにボクに甲斐性ナシって言ってるの、春華?」
「さぁな。」
「う……春華なんてなんにもしてナイじゃん!」
「…………。」
春華の何気ない一言が、勘太郎の癇に障ったらしい。
先ほどまで平和主義者だった彼は がばっと立ち上がると、春華に向かって指を指し、高らかと叫んだ。
「ボクは(たまにだケド)きちんと給料は家に入れてるよっ。
でも春華はどう?日がな一日遊んでるだけじゃないか…!」
「てめぇ……。」
子供みたいな勘太郎の言動に、春華はふつふつと怒りが湧き上がってくるのを感じる。
しかし全て当たっているだけに、それはもうどうしようもなくて。
「春華は家計をやりくりしてるヨーコちゃんのコト、少しでも考えたコトあるワケ?」
「……お前にだけは言われたくねぇな……」
じろりと勘太郎を睨むと、春華もすっと立ち上がる。
奴の暴言なんて、普段は滅多に気にしない。
でも、今回のはまるで、自分だけがお荷物みたいじゃないか。
………俺だけが、アイツのために出来ることなんか何も……。
春華は、きゅっと拳を握った。
こんな所、来たくてきたわけじゃない。
日々 思っていた。それなのに。
何がそんなに俺を変えたんだ……?
こう考えたとき ちらりと脳裏に浮かんだ、ヨーコの笑顔。
それは 『とてもいとおしく、大切なもの。』
理屈なんか、これだけで十分で。
できるなら、自分だけのものに したいのに。
「ご飯できたよ~…ってアレ、春華ちゃんは?」
沈黙が降りていた茶の間に、ヨーコの声が響く。
「食べたくないんだって。……頑固なんだよ春華は……。」
こう言いつつ、勘太郎は今にも泣きそうな顔をしている。
暫く黙り込んでいた彼らだったが、
「ごめんね。勘ちゃん、スギノさま、ちょっと待ってて。」
ヨーコはこう言い残すと、閉ざされていた障子をそっと開いた。
もう冬も近いな。
縁側で冷たい風に吹かれながら、春華はとりとめもなく思った。
「春華ちゃんっ!」
背後から聞こえた声に、春華はゆっくりと振り返る。
そこには、おたまを持ったままのヨーコが立っていて、何してるのと言わんばかりの顔で、春華を見ていた。
「…っなんだよ……。」
「ご飯、出来たよ?食べたくないの…?」
障子越しの薄い電灯が逆光となり、ヨーコの顔に影を作っている。
春華はすっと立ち上がり、庭に出た。
二、三歩進むと、後ろを向いたままで、
「……働かざるもの、喰うべからずなんだろ。」
と呟く。
「なに言ってるの、そんなワケないじゃない!」
ヨーコは裸足のまま春華の前に立ちふさがり、きっ、と上目遣いで睨んだ。
それきり黙り込んでしまった春華に、
ヨーコはくるりとそっぽを向く。
「喧嘩するなんて、嫌だよ……。」
―――彼女は今、どんな顔をしている……?
俺は、もっと近づけるのか?
春華は、きゅっと後ろからヨーコを抱きしめた。
彼女の細い肩に。
自分は今、こうして腕を回している。
それは 言い表しようのない優越感。
もう、それだけで。
まるで自分にもたれかかるような体勢を取った彼に対し、ヨーコは呆気にとられている。
「な、ナニっ…春華ちゃんどーしたの?具合でも悪く……。」
ヨーコは心配そうに、後ろを振り返る。
すると、ぱちりとふたりの視線が出会った。
「……え…春華ちゃん……?」
「……あのな、ヨーコ……」
春華と異常に至近距離になってしまったことに気がついたヨーコは、真っ赤になって俯いた。
「……ごめんな。」
「……なんで謝るの?」
「俺だけが、お前に迷惑かけっぱなしなんじゃねーか…って。」
知らぬうちに顔が曇っていたのだろう。
ヨーコは正面を向いたまま 自分に回された春華の腕をぎゅっと掴んだ。
「『俺だけ』なんて言わないでっ!私、そんなコト、全然気にしてないもん。」
「怒ってるのか?」
「怒ってなんかないっ!」
「……十分怒ってるじゃねーか……。」
春華ちゃんの頑固者、とヨーコは呟く。
大方、勘太郎か誰かが言っていたのだろう。
春華からしてみれば、ヨーコの方がよほどの頑固者なのだが。
春華はふぅっとため息をついた。
「解った解った…。じゃあ最後にもう一度だけな。」
「え……?もう一度って……。」
―――――なに?
―――――…あのな、黙って聞いとけよ?
揺れる彼女の大きな瞳に。
どうか、届くのなら。
「『俺だけ』の、お前で居て欲しい。」
夜風にそっと解けていく 肩越しの告白。
多田野狸さまのリクエストで、独占欲春華ちゃん文でした~。
…こ、こっぱずかしい…!
どうもありがとうございました!
