あの無作法な来訪者を心待ちにするようになったのは、一体いつからだったろう。




雪の日の唄




その日は、朝から寒かった。
使用人たちの話では、毎年この頃降る雪は必ず積もるらしい。
そんな雪の積もった朝は、言いようも無いくらいに美しいと。
その真白な世界にひとつひとつ自分の足跡をつけてゆくのは大人になっても心躍るものだと、使用人たちは言っていた。
大きな屋敷の中に閉じこもりっぱなしの彼女には、到底知りえない世界だが。
 「おはよう、松子さん。」
部屋にふわりと冷たい風が舞い、読んでいた本の頁がぺらぺらと捲れる。
揺れる黒髪を押さえながら、松子は凛とした瞳で窓のほうを見据えた。
葉もすっかり落ちてしまった木の枝に、冬の朝日と言うよりも、夏の太陽といった方がふさわしいであろう笑顔を浮かべた少年。
上には薄い上着しか羽織っていない。

 「……貴方、そんな格好で寒くないの……?」
松子は呆れたように ふう、とため息をつくと手元の本に目を落とした。
平気だよ、と 少年は笑う。


 「そんなコトより外を見てごらん。雪が降ってきたんだ。」


少年の言葉に、再び彼女は顔を上げた。
空からひらひらと落ちてくる白いモノ。



キレイ………。
雪は、六角形や八角形の結晶で出来ているのだと、昔 本で読んだことがある。
それは忘れることの出来ない宝物のように、鮮明に思い出された。
あの白い物体に腕を伸ばしたのなら、この手に掬えるだろうか。
密やかに、胸に浮かんだ想いを馳せていると。



ふと、少年と目が合った。
じっと落ちてくる雪に見入っていた松子に、まるで小さな子供を見ているかのような眼差しを向けていた彼。
思わず、怪訝な声を出してしまう。
 「…なに?」
 「……いや、こんなにも大粒の雪が降るなんて珍しいなと思って。」
 「嘘よ。貴方は雪なんか見てなかったわ。」
バレたか。そう言うと、彼はぺろりと舌を出した。
 「でもホントの話、ここまで大粒の雪が朝降るのを見るのは初めてだ。松子さんは?」
 「……………。」
彼女は、何も言えない。
雪の降ってくる瞬間なんて、まじまじと見たこと無かった。
これが、正直な答え。




 「松子さん、雪好き?」
詰まってしまった彼女を助けるかのように、彼は話題を逸らした。
 「…別に、好きでも嫌いでもない。」
 「ふーん。俺は結構好きだけどな。見て、さっき雪からキスされちゃった。」
そう言うと、彼は自分の唇ををちょん、と指差した。
そういえば、いつもよりもその部分だけ紅いような気がする。
 「ふーん、よかったじゃないの。好きな人からキスを貰えて。」
棘のある口調で一言発すると、松子は本に目を落とし、手にしていた頁をさらりと捲った。
そんな彼女を、正吾は外から窓辺に頬杖をついて見ている。
彼にも、急に彼女の機嫌が悪くなってしまったことが解ったのだろう。
 「もしかして、松子さんも雪からキスが欲しかった?」
 「欲しくなんか無いわよ。馬鹿みたい。」
そう言い捨てると、また頁を捲る。
彼女の気がかりはそこではなかった。
雪に対する嫉妬という感情。人間でもないものにこんな感情を抱くなんて可笑しい。
認めたくない。

必死に気していない風を装っていたが 彼女が頁を捲る速さは、目に見えて早くなっていく。





そのとき。





ふっと、自分の唇に、何かが優しく押し当てられた。
文句を言う間もなく。しかしそれは一瞬で離れてしまったが。
主犯者である少年は、にっこりと微笑む。
 「これで松子さん、雪と間接キスだ。」
 「………。」



どこが間接だと言うの?

雪は、こんなに暖かく触れないじゃないの!



もう、唖然としか言いようが無く。
見る見る頬が紅潮してゆくのが、自分でも解った。
しかし今にもそのことを指摘しそうな彼よりも先に、
 「寒いせいよ。」
こう、無機質に言い捨てる。
そんな己の行動とは反比例して、鼓動は煩く頭に響く。
いつものように強気に、彼を睨みつけようと思ってみても。


紅い顔を直視されたくなくて、松子はくるんと顔を逸らす。
 「…いつまでもそんなところにいるもんじゃないわよ。風邪引くわ。」
 「雪が降っているときは暖かいんだよ。松子さん、知ってた?」
悪戯っぽい顔で笑う彼に、彼女はなぜか腹を立てることが出来なかった。



 「……まったく、貴方は子供ね……。」



こうは言っても、今日こそは負けを認めざるを得ない。

しかしそれは、心地よい敗北感。

甘く、心にしみわたる……―――





松子さんと正兄さま。出会いの妄想。

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